Se connecter「なぜ言い返さない。あんな女に言われっぱなしで、お前は平気なのか? それとも、あんなゴミのような言葉を、事実だと認めているのか」
「だって……彼女の言うことは、間違っていません。私は、あなたに買われただけの、ただの家政婦ですから……。あんな高価なドレス、似合うはずが……」「黙れ」 言葉は、彼の唇によって強引に塞がれた。 それは口づけというにはあまりに暴力的で、痛みを伴う略奪だった。 私の舌を執拗に絡め取り、酸素を奪い、頭の中を彼の匂い――高級な煙草と、冷ややかなシトラスの香り――だけで塗りつぶしていく。 抵抗しようとする手首は、彼の鉄のような掌によってシートに縫い付けられ、身動きが取れない。「ん……っ、んぅ……」 呼吸が苦しくて、目尻から涙がこぼれた。けれど彼は、私の涙を指で拭う代わりに、その雫を舌で掬い取り、より深く、奥へと侵入してくる。 ようやく唇が離れたとき、私は酸欠で視界がチカチカと火花を散らしていた。「お前は俺のものだ。俺が価値があると言えば、それが絶対なんだ。誰にも、指一本触れさせないし、言葉一つで傷つくことも許さない。……あの女の言葉など、二度と脳裏に浮かべるな。……わかったか?」 征也の指が、ドレスの襟元を乱暴に押し広げた。 今朝、彼自身が刻みつけた、赤紫色の痕。 彼はそれを満足げに見つめると、わざと爪を立ててその上を強くなぞった。「あ……っ!」 鋭い刺激に、背筋を電流が駆け抜ける。 びくりと体が跳ね、下腹部が熱く、甘く疼き出した。 エリカに浴びせられた罵倒の痛みさえ、彼の与える鮮烈な刺激によって上書きされ、塗り替えられていく。 守られたことへの喜びと、さらに深く、出口のない場所へ閉じ込められた恐怖。 私は、彼から与えられる屈辱的な寵愛から、もう二度と逃げられないことを悟り、どうしようもない昂ぶりに身を「美しいよ、莉子ちゃん。……やっと、君が戻ってきた」「……きつい、よ。サイズが合ってない」「馴染むよ。……君が、僕の色に染まればね」 蒼くんは私の肩を抱き、強く引き寄せた。石鹸の香りが鼻をつく。征也の匂いとは違う、人工的な清潔さ。それが今は、鼻の奥を刺激する薬品の匂いのように感じられて、吐き気がした。「ここでは君は自由だ」 蒼くんは私の耳元で囁いた。「好きな時間に起きて、好きな本を読んで、ただ静かに過ごせばいい。……僕の言うことさえ聞いていれば、何も怖いことはない」 自由? これが? 自分の着る服さえ選べず、外部との連絡も絶たれ、母にも会わせてもらえない。これは自由なんかじゃない。ただの「飼育」だ。「……ねえ、窓の外を見てごらん」 蒼くんに促され、リビングの大きな窓に近づく。外はもう、漆黒の闇に包まれていた。街灯一つない、深い森。木々が風に揺れ、ざわざわと不気味な音を立てている。 どこまでも続く暗闇が、この別荘を外界から完全に隔絶していた。「ここからは、どこへも行けない。……天道の手も、世間の目も届かない」 蒼くんの言葉が、重い錠前のように心に掛かる。「君はもう、僕だけのものだ」 窓ガラスに映った自分の姿を見る。真っ白な、窮屈なワンピースを着た、青ざめた女。その胸元には、隠しきれないサファイアの膨らみが、微かに主張している。 私はとっさに胸元を手で覆い隠した。彼に見つからないように。この、最後の砦だけは守り抜くために。(……助けて) 逃げてきたはずなのに。闇の向こうに、あの人の姿を探してしまう。 お願い、見つけて。私をこの優しい地獄から、連れ戻して。たとえそれが、父の仇の手であっても構わない。 私は、あの熱い檻の中に帰りたい。 窓の外で、一瞬、何かが光ったような気がした。雷光だろうか。それとも、私を追ってきた獣の眼光だろうか。私は胸
◇ バスルームに入り、鍵をかけた瞬間、私は壁に背中を預けて崩れ落ちた。鏡に映る自分の顔は、死人のように青白い。「逃げなきゃ」 本能が警鐘を鳴らしている。ここはシェルターなんかじゃない。別の、もっと恐ろしい檻だ。征也の檻は、熱くて、狭くて、息苦しかったけれど、そこには確かな体温があった。生きていくための熱があった。 でも、ここの檻は違う。冷たくて、無機質で、私の存在そのものを否定して、「理想の人形」に作り変えようとする狂気に満ちている。「……征也くん」 無意識に、首元のスカーフを解いた。露わになったのは、大粒のサファイアのネックレス。深い青色の輝きが、バスルームの白い照明の下で、鋭く光る。 彼が私につけた首輪。外そうと思えば外せるはずなのに、どうしても指が動かない。これを外してしまったら、私が私でなくなってしまう。征也との繋がりが、完全に断たれてしまう。 それだけは、絶対に嫌だった。「……隠さなきゃ」 私はネックレスを外さず、肌着の下に入れ込んだ。冷たい石が胸の谷間に触れ、ひやりとする。でも、すぐに体温で温まり、私の鼓動に合わせて脈打ち始めた。 まるで、征也が「俺はここにいる」と訴えかけているように。 シャワーを浴び、渡されたワンピースに袖を通す。やはり、きつい。胸元や腰回りが締め付けられ、息をするのも苦しい。丈も短く、膝上まで足が露出してしまう。 鏡の中の私は、無理やり子供服を着せられた大人の女のようで、滑稽で、哀れだった。「……似合わない」 自嘲気味に呟く。でも、蒼くんはこれを望んでいるのだ。無垢で、無知で、彼に従順な「莉子ちゃん」を。 バスルームを出ると、蒼くんがソファで待っていた。私を見るなり、彼の目が怪しく輝いた。「……ああ、やっぱり」 彼は立ち上がり、うっとりとした表情で私に近づいてくる。「完璧だ。……僕の思った通りだ」 彼は私の手を取り、くるりと回らせた。まるで、新しく
「……少し、待っていて。君に着替えを用意してあるから」「着替え?」「ああ。その服……汚れているだろう?」 蒼くんの視線が、私の服に向けられる。病院から逃げ出したままの格好だ。確かに少し皺になっているけれど、汚れているというほどではない。「汚れてなんて……」「汚れているよ。……あの男の匂いがする」 蒼くんの顔から、ふっと笑みが消えた。真顔だった。能面のように感情のない顔で、彼は私の首元――スカーフの下にある、征也がつけたキスマークのあたりをじっと見つめていた。「……穢(けが)らわしい。君のような純粋な花が、あんな野蛮な獣の匂いを纏っているなんて、耐えられない」 彼は吐き捨てるように言うと、奥の部屋へと消えていった。残された私は、自分の首元を押さえ、震えを抑えるのに必死だった。怖い。 何かがおかしい。蒼くんは、私の知っている穏やかな幼馴染とは違う。言葉の端々に覗く独占欲。潔癖なまでのこだわり。それは征也の強引さとはまた違う、もっと湿度が高くて、粘りつくような執着だ。 しばらくして、蒼くんが戻ってきた。手に、真っ白な箱を持っている。「さあ、莉子ちゃん。これに着替えて」 箱が開けられ、中身が取り出された。それは、純白のワンピースだった。フリルとレースがあしらわれた、少女趣味なデザイン。 清楚と言えば聞こえはいいが、今の私の年齢で着るには、あまりに幼く、浮世離れしている。それに。「……これ、サイズが……」 見ただけで分かった。明らかに、小さい。中学生か、高校生くらいの少女が着るようなサイズ感だ。「サイズ? 大丈夫だよ。昔の君なら、これくらいぴったりだったはずだ」「昔って……もう10年近く前の話よ。今は無理だわ」「入るよ。君はあの頃から、何も変わっていないはずだから」 蒼くんは、夢見るような瞳で私を見つめた。焦点が合っていないよ
「……それより、着いたよ。莉子ちゃん」 車が速度を緩め、砂利道をゆっくりと進む。木々の切れ間から、忽然と姿を現した建物を見て、私は息を呑んだ。「ここ……?」 それは、別荘と呼ぶにはあまりに異質な建物だった。コンクリート打ちっ放しの、要塞のような外観。窓は極端に少なく、あっても鉄格子のようなデザインが施されている。 周囲には民家の一軒もなく、鬱蒼とした森が黒い壁のように取り囲んでいた。美しいけれど、冷たい。生活の匂いがまるでしない、無機質な箱。「僕の隠れ家(セーフハウス)さ。ここなら誰も来ないし、誰にも見つからない」 車が止まる。運転席から降りてきた男が無言でドアを開けると、蒼くんが先に降り、私に手を差し伸べた。 山の冷気が一気に流れ込み、私は身震いして車外に出た。静かだ。 鳥の声さえしない。風が木々を揺らす、ざわざわという音だけが、波のように押し寄せてくる。「さあ、入ろう。……君のための『城』だよ」 蒼くんに背を押され、重厚な鉄の扉をくぐる。カチャリ、と鍵が閉まる音が、背後で重く響いた。まるで、檻の中に閉じ込められた小動物のような気分だった。 中は、外観と同じく無機質で洗練された空間だった。白い壁、白い床、白い家具。塵一つ落ちていない潔癖なまでの清潔さが、かえって居心地の悪さを増幅させる。 病院みたい。あるいは、標本を飾るためのショウケース。「お母さんは……?」 私はあたりを見回した。人の気配がない。広すぎるリビングには、私と蒼くんの足音だけが反響している。「彼女は別の棟にいるよ。医療設備が必要だからね」「別の棟? どこにあるの? 会わせて」「焦らないで。……移動の疲れが出ているみたいで、今は鎮静剤で眠っているんだ。会うのは明日にしよう」「そんな……顔を見るだけでいいの。無事かどうか確かめたいだけ」 食い下がる私に、蒼くんは困ったように眉を下げ、ため息をついた。
「……そうだね。今はまだ、怖いよね。ゆっくり休むといい」 彼は手を引っ込め、再び前を向く。私は小さく息を吐いた。なぜ、こんなに拒絶してしまうのだろう。彼は幼馴染で、私を助けてくれた恩人のはずなのに。 触れられそうになった瞬間、生理的な警鐘が鳴り響く。『違う』と。『その手じゃない』と、身体中の細胞が叫ぶのだ。私の肌が覚えているのは、もっとゴツゴツとした、節くれだった指。乱暴で、痛いくらいの強さで、でも触れるたびに所有の証を刻み込んでくるような、あの熱い手だけだ。(……征也くん) 心の中で名前を呼ぶだけで、胸が張り裂けそうになる。今頃、彼はどうしているだろうか。病院で私が消えたことを知って、激昂しているだろうか。それとも、私の裏切りに愛想を尽かして、冷笑しているだろうか。『追跡しろ』 そんな声が聞こえた気がした。彼は絶対に私を諦めない。地の果てまで追ってくる。その確信が、恐怖であり、同時にどうしようもない救いのように思えてしまう自分が、死ぬほど情けなかった。 ◇ 車は高速道路を降り、曲がりくねった山道へと入っていった。木々の緑が濃くなり、対向車もまばらになる。人家の明かりなどとうに消え失せ、窓の外に広がるのは、深海のような深い森の闇だけだ。「……ねえ、蒼くん。まだ着かないの」 募る不安に耐えかねて尋ねる。時間を確認しようと、ポケットに手を入れた。「あ」「どうしたの?」「スマホが……ない」 ポケットの中は空っぽだった。バッグの中を探っても、どこにもない。病院から逃げる時は確かに持っていたはずだ。蒼くんからの指示を受け取ったのも、あの端末だったのだから。「ああ、それなら僕が預かっているよ」 蒼くんは何でもないことのようにさらりと言った。「え……?」「さっき、君が眠っている間に回収させてもらった。……ほら、天道に見つかるといけないからね。GPSで
グレーのワンボックスカーは、都心の喧騒を置き去りにしてひたすら走り続けていた。窓の外を流れる景色は、無機質なビルの群れから、やがてまばらな住宅街へ、そして鬱蒼とした緑の壁へと移り変わっていく。 タイヤがアスファルトを噛む単調な走行音と、微かなエンジンの振動だけが、車内の重たい沈黙を埋めていた。「……蒼くん、どこへ向かっているの」 何度目かの問いかけに、隣に座る神宮寺蒼は、穏やかな笑みを私に向けた。銀縁眼鏡の奥で細められた目は優しげで、怒っている様子も、焦っている様子もない。まるで、天気のいい休日にドライブへでも出かけているような、拍子抜けするほど軽い調子だ。「少し遠くだよ。……天道の手が届かない場所まで行かないと、君を守れないからね」「でも、お母さんは……? 別の車で移動しているって言ってたけど、合流できるの」「大丈夫。スタッフが万全の体制で搬送してるよ。到着したらすぐに会えるさ」 蒼くんの声は、滑らかで心地いい。けれど、なぜだろう。その言葉を聞くたびに、胸の奥に冷たい澱が沈殿していくような、ざらりとした違和感を拭えない。「大丈夫」「安心しろ」。それは、かつて征也が私に向けていた言葉と同じだ。けれど、征也の言葉には、私の不安を力ずくでねじ伏せるような圧倒的な熱量と、何があっても責任を取るという覚悟のような重みがあった。 対して、蒼くんの言葉は軽すぎる。綺麗にラッピングされた空箱のように、中身の温度が感じられない。(……比べてる) 私は膝の上で、スカートの生地をぎゅっと握りしめた。逃げ出してきたくせに。父の仇だと知って拒絶したくせに。私の身体はまだ、天道征也という男の強烈な引力圏から抜け出せずにいた。 空調の効いた車内は適温に保たれているはずなのに、肌寒くて仕方がない。二の腕をさすると、鳥肌が立っているのが分かる。征也の腕の中にいた時は、息苦しくなるほど暑かったのに。 あの、ムスクと煙草の混じった匂い。火傷しそうな体温。私を閉じ込め、窒息させんばかりに抱きしめる力強さ。それらが欠落したこの空間は、